夜の琴の声
平安の都、その夜は月が雲に隠れていた。 東宮御所は、表向きの宴の喧騒とは裏腹に、静まり返っている。 「月の君」と呼ばれる皇子、月白(つきしろ)は、書物の中に顔を埋めていた。 まだ二十二歳という若さだが、その瞳には、生まれながらに定められた運命への諦観が漂っている。
外では、雅楽の音が、絹の布を無理やり引き裂くように響いている。 それは美しく整えられているが、心がない音だった。 月白は、その音から逃れるように、書物のページをめくる。 そこに書かれた文字だけが、彼を遠い世界へ連れて行ってくれる唯一の慰めだった。
「皇子」 低い、感情のない声がした。 月白は顔を上げない。 「また宴をお抜けになったのですな」 大納言、藤原景厳(ふじわらのかげとし)。 五十路を過ぎた男の顔には、能面のような無表情が張り付いている。 この国の影の実力者。月白の教育係であり、監視者でもある。
「景厳か。何の用だ」 「宴の音がお嫌いと存じておりました」 景厳はゆっくりと室内に歩を進めた。 彼の足音は、畳の上でさえ、まるで石畳を歩くように重い。 「ですが、皇子。音楽は心の薬とも申します。あまりに書物ばかりでは、心が乾いてしまいますぞ」 「お前の選ぶ薬は、いつも苦い」 月白は、ようやく書物を閉じた。
「退屈なのだ。あの音楽も、宴も、そこにいる人々も。すべてが偽物だ」 「……」 景厳は一瞬、目を細めた。 「では、真実の音をご所望と?」 「真実?この御所にあるのか。あるなら聞かせてみよ」
景厳は静かに微笑んだ。 それは、獲物を見つけた蛇の微笑みにも似ていた。 「一人、琴の師を推薦いたしました。明日にでも東宮へ参内させましょう」 「またか。何人目だ。どいつもこいつも、父上のご機嫌伺いの曲しか弾けぬではないか」 「今度の者は、少し違います」 景厳はそう言うと、背を向けた。 「ただの、田舎の女でございます。名は、アヤと」
月白は興味を失い、再び書物に目を落とした。 景厳は気配を消して去っていく。 彼は知っていた。皇子が何に飢えているのか。 そして、その飢えをどう利用すべきか。 景厳にとって、皇子の心は、次の政(まつりごと)を動かすための駒でしかなかった。
次の日、雨が降っていた。 細い雨が、御所の庭の苔を濡らしている。 月白の前に、一人の女が通された。 「アヤと申します。本日より、皇子のお稽古のお相手をさせていただきます」 声は、小さく、だが芯があった。
月白は、初めて顔を上げた。 女は、薄い水色の衣をまとっていた。 顔立ちは整っているが、派手さはない。 ただ、その手が、皇子の目を引いた。 琴を弾くために生まれてきたような、白く、細く、長い指。 そして、黒髪に挿された一本の簪(かんざし)。 高価なものではない。ただの木に、小さな花の文様が彫られているだけだ。 だが、その文様が、どこか懐かしく、胸をざわつかせた。
「アヤ、といったな」 「はい」 「顔を上げよ」 カエデ、いや、アヤはゆっくりと顔を上げた。 彼女の目は、皇子をまっすぐに見つめた。 その瞳には、恐怖も、媚びもなかった。 ただ、深い湖のような静けさがあるだけだ。 (……面白い) 月白は、久しぶりにそう思った。
「では、何か弾いてみよ」 月白は、壁に立てかけてあった琴を指差した。 それは、月白の祖母の形見の琴だったが、もう何年も誰も触れていない。 アヤは静かに琴の前に座した。 その所作は、水が流れるように自然だった。
彼女は、指を弦に置いた。 ポロ、と最初の音が鳴る。 それは、教科書通りの、完璧な雅楽の曲だった。 音は正確で、技術は非の打ち所がない。 だが、月白の表情は、すぐに曇った。 「やめよ」 厳しい声が響き、アヤの指が止まった。 音が消えた部屋に、雨音だけが戻ってきた。
「それも、偽物だ」 月白は立ち上がった。 「お前もか。お前も、景厳が用意した人形か」 「……」 アヤは顔を伏せたまま、動かない。 「技術は見事だ。だが、心がない。魂が震えぬ。それはお前の音ではない。ただの写しだ」 月白の言葉は、刃のように鋭かった。 彼は苛立っていた。自分に、そして、この女にまで裏切られたような気がして。
「帰れ。もうよい」 月白が背を向けた、その時だった。 「……では」 アヤが、か細い声で言った。 「では、皇子が聴きたいのは、どのような音でございますか」 「……何?」 「偽物ではない、真実の音とは、どのようなものか。私には、わかりません」 月白は振り返った。 女は、顔を上げていた。 その瞳には、先ほどの静けさではなく、抑えきれない何かが、炎のように揺らめいていた。
「……私の知る音は、これだけです。父に習い、師に習った音。宮中で好まれる音。それ以外を弾けば、私は…」 彼女は言葉を切った。 「私は、ここにいる意味がなくなります」 月白は、彼女の前に歩み寄った。 二人の距離は、もう数歩しかない。 「お前の音を弾け」 皇子は命じた。 「誰かに習った音ではない。宮中で好まれる音でもない。お前が、今、弾きたい曲を弾け」 「……そのようなものは、ございません」 「嘘をつくな」
月白の目が、彼女の瞳の奥を射抜いた。 「お前のその指が、それを弾きたがっている。お前のその目が、何かを語りたがっている」 アヤの肩が、小さく震えた。 彼女は、自分の手を、ぎゅっと握りしめた。 あの簪(かんざし)が、黒髪の中で揺れる。 それは、十五年前、一族が滅びた日に、父が彼女の手に握らせたものだった。 『楓(かえで)。生きろ。我らの音を、絶やすな』
彼女の脳裏に、血の匂いと、炎の記憶が蘇る。 生き延びるために、彼女は名前を捨てた。 「アヤ」という仮面をかぶり、息を潜めて生きてきた。 父の愛した「音」を、宮中で、敵(かたき)の前で弾くことなど、許されるはずがなかった。 それは、一族への裏切りであり、自らの死を意味する。
だが、目の前の皇子は、彼女の仮面を剥がそうとしている。 その瞳は、彼女の奥底にある「真実」を、まるで知っているかのように、見つめている。 「弾けぬというのか」 月白が、失望したように呟いた。 その声が、彼女の心の最後の弦を、強く弾いた。
アヤは、ゆっくりと、琴に向き直った。 指が、震えている。 恐怖か、それとも、抑えきれない衝動か。 彼女は目を閉じた。 そして、指が弦に触れた。
それは、今まで聞いたことのない旋律だった。 雅楽の優雅さはない。 むしろ、荒々しく、悲しく、そして、どこまでも自由だった。 それは、嵐の前の静けさであり、嵐そのものでもあった。 それは、縛られた魂が、鎖を引きちぎろうとする叫びだった。
ほんの、数十秒。 短い、短い旋律。 だが、月白は息を飲む。 全身の血が逆流するような衝撃。 これだ。 これこそが、彼がずっと探し求めていた「真実」の音だった。
指が止まる。 アヤは、ハッと我に返り、自分の指を見た。 血の気が引いていくのがわかった。 (何を、私は何を……) 弾いてしまった。 決して、弾いてはならない、禁じられた一族の曲。 『琴の声(ことのこえ)』。
「……今の曲は」 月白の声が、震えていた。 興奮か、それとも別の何かか。 「今の曲の名は、何という」 アヤは、必死で平静を装った。 顔を上げ、できるだけ無表情に。 「……名など、ございません」 「嘘だ」 「田舎の里で、古くから伝わる、ただのわらべ歌でございます。お聞き苦しいものを、失礼いたしました」
彼女は深く、深く頭を下げた。 これ以上、ここにいてはならない。 月白は、彼女の嘘を見抜いていた。 だが、彼はそれ以上、追及しなかった。 彼はただ、窓の外の雨を見つめていた。 「……明日も、参れ」 「え?」 「その、わらべ歌とやら。気に入った。明日もそれを聞かせよ」
アYアは、顔を上げられなかった。 皇子は、自分が蒔いた種が、どれほど危険なものか、まだ気づいていない。 だが、彼女は知っていた。 この音は、いつか、すべてを焼き尽くす炎になる。
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次の日も、雨は降っていた。 だが、東宮御所の空気は、昨日とは違っていた。 月白は、書物を読んでいない。 彼は、ただ、アヤが来るのを待っていた。
アヤは、昨日よりも少し、顔色が悪かった。 夜通し、悩んだのだ。 逃げるべきか。 だが、逃げれば、不審に思われる。 それに、彼女には目的があった。 この御所にある「蔵書」に、一族の無実を証明する記録が残されているかもしれない。 そのためには、皇子の信頼を得るしかない。 たとえ、それが火の中を歩くことになっても。
「参りました」 「うむ」 月白は、琴を指差した。 「昨日の曲を」 アヤは、黙って琴の前に座る。 そして、あの禁じられた旋律を、昨日より、ほんの少し長く弾いた。 音は、雨音に混じり、部屋の空気を震わせた。 月白は、目を閉じて、その音に耳を傾けている。
彼が探していたのは、これだ。 規則や、しきたりや、血筋では縛れない、人間の魂そのものの音。 アGアの指が止まる。 「……なぜ、この曲を知っている」 月白が、目を開けずに尋ねた。 「お教えできません」 アヤは、きっぱりと答えた。 「そうか」 月白は怒らなかった。 むしろ、その拒絶が、彼には心地よかった。 初めて、彼に「いいえ」と言った人間。 初めて、彼に媚びなかった女。
「お前は、外の世界が恋しいか」 唐突な質問だった。 「外の世界、と申しますと」 「この、御所の壁の外だ。都の喧騒、市井の人々、自由な空気。……恋しいか」 アヤは、少し戸惑った。 彼女は、一族が滅びてから、ずっと隠れるように生きてきた。 都の喧「騒」など、知らない。 「……私は、生まれてからずっと、狭い世界で生きてまいりました。皇子様ほどではございませんが」 「私ほど?」 月白は、自嘲気味に笑った。 「そうか。お前も、籠の中の鳥か」 「……」
それから、奇妙な「稽古」が始まった。 アヤは、琴を弾く。 だが、それはもはや雅楽の曲ではなかった。 月白が求める「あの旋律」を、少しずつ、形を変えて弾くだけ。 そして、稽古の半分は、会話になった。
月白は、彼女に書物の話をした。 遠い異国の詩、星の動き、哲学。 アヤは、彼の話に熱心に耳を傾けた。 彼女の知性もまた、狭い世界に閉じ込められていたのだ。 アヤは、皇子に「木」の話をした。 どの木がいつ芽吹くか、どの葉がどんな匂いがするか。 それは、彼女が父と過ごした、失われた日々の記憶だった。
月白は、彼女の言葉の中に、自分が失った「生」の感覚を見出した。 カエデは、彼の言葉の中に、自分が知らなかった「世界」を見出した。 二人の魂は、琴の音色のように、静かに共鳴し始めていた。
ある日のこと。 稽古が終わった後、月白がアヤを呼び止めた。 「これを、お前に」 彼が差し出したのは、小さな包みだった。 「……いただけません」 「開けてみよ」 開けると、中には、見たこともないほど美しい絹布が入っていた。 海のように深く、空のように澄んだ、青い色の絹。 「……これは」 「遠い国から来た絹だ。そこは、自由な土地だと聞いた」 月白の目が、熱を帯びていた。 「お前の音に、似合う色だと思った」
アヤは、震える手でそれを受け取った。 これは、危険すぎる贈り物だ。 皇子が、一介の琴の師に、私的な贈り物をすることの意味。 彼女は、わかっていた。 「皇子。お心遣い、感謝いたします。ですが、私は……」 「受け取れ。これは、命令だ」 初めて、彼は皇子としての命令を使った。 だが、その声は、命令というより、懇願に近かった。
アヤは、絹布を握りしめた。 その時、部屋の隅で、ずっと控えていた女官が、一瞬、目を見開いたのを、アヤは見逃さなかった。 女官の名は、巴(ともえ)。 月白の乳母代わりとして、長く仕えてきた女官だ。
巴は、その青い絹布と、アヤの質素な木の簪を、交互に見た。 巴の胸が、騒ぎ始めた。 皇子のあの眼差し。 あのように、生き生きとした皇子の顔は、もう何年も見ていなかった。 だが、同時に、恐ろしい予感がした。 あの琴の師、アヤ。 彼女が来てから、皇子は変わった。 だが、それは、宮中で許される「変化」ではない。
巴の目は、アヤの髪に挿された簪に、再び引き寄せられた。 どこかで、見たことがある。 あの、小さな、花の文様。 それは、とても、不吉な記憶と結びついている気がした。
その頃、大納言、藤原景厳の屋敷にも、東宮御所の噂が届いていた。 「皇子が、最近、奇妙な音楽に夢中だと?」 景厳は、冷たい声で、部下に尋ねた。 「はっ。雅楽ではなく、魂を揺さぶるような、不思議な音色だとか」 「魂を揺さぶる?」 景厳は、眉をひそめた。 彼が皇子に与えたのは、心を「鎮める」ための人形のはずだった。 心を「揺さぶる」など、あってはならないことだ。 「その琴の師、アヤと申したな。何か、妙な動きは」 「いえ、それが、いたって質素で、物静かな女だと。ただ……」 「ただ、何だ」 「皇子との稽古は、いつも人払いがされ、女官の巴様しか同席を許されておりません」
景厳は、目を閉じた。 何かが、彼の計算と違ってきている。 あの皇子の目に、光が戻ることは、景厳にとって都合が悪い。 光は、影を消してしまう。 景厳は、皇子を、意のままに操れる「影」の中に、閉じ込めておきたかった。
「……巴を呼べ」 景厳は、短く命じた。 数刻後、巴が、景厳の前に座っていた。 顔は青ざめ、緊張で体がこわばっている。 「皇子のご様子は?」 景厳の声は、穏やかだった。 「あ、はい。お健やかに……お過ごしでございます」 「そうか。それは何より。……新しい琴の師は、どうだ。皇子のお気に召したと見える」 「は……はい。とても、熱心に……」 「そうか」 景厳は、巴の目をじっと見つめた。 巴は、その視線に耐えきれず、目を伏せた。 「巴。お前は、皇子に長く仕えている。皇子の幸せを、誰よりも願っているはずだ」 「……もちろんでございます」 「ならば、聞こう。あのアヤという女。どのような女だ」
巴は、息を飲んだ。 ここで嘘をつけば、一族が危うい。 かといって、本当のことを言えば、皇子を裏切ることになる。 「……物静かな、女でございます。ですが……」 「だが?」 「……時折、とても、強い意志を、瞳に宿しておられます」 「ほう。強い意志、か」 景厳は、満足そうに頷いた。 「下がってよい」 巴が、這うようにして部屋を出ていくと、景厳は、影に隠れていた部下を呼んだ。
「あのアヤという女の素性を洗え」 景厳の声は、氷のように冷たくなっていた。 「田舎の女、などという曖。昧な報告はもう聞かぬ。一族、家柄、師事した者。すべてだ」 「はっ」 「徹底的に、だ。……あの皇子の目を変えた女だ。ただの人形であるはずがない」 景厳は、庭に咲く、完璧に手入れされた菊の花を見つめた。 「不純物は、早く摘み取らねばな」
数週間が過ぎた。 御所の中庭には、遅咲きの椿が、ぽつりぽつりと咲き始めている。 月白とアヤの関係は、危険なほどに深まっていた。
稽古の時間は、すでに「稽古」ではなくなっていた。 それは、二つの孤独な魂が、束の間、触れ合うための儀式だった。 月白は、彼女のために、夜、密かに庭を開放させた。 二人きりで、月の下を歩く。 護衛も、女官もいない。 ただ、遠くから、巴だけが、心配そうにその影を見つめていた。
「この庭は、美しい」 アヤが、初めて自分から感想を口にした。 「だが、作られた美しさだ」 月白が答える。 「すべてが、あるべき場所に、寸分の狂いもなく置かれている。まるで、景厳の頭の中のようだ」 「……」 「お前の故郷は、どうだった」 アヤは、足を止めた。 故郷。その言葉は、彼女の胸を締め付けた。 炎と、血と、父の最後の顔。 「……山が、ありました」 彼女は、嘘と真実を織り交ぜて語った。 「とても、荒々しい山です。道もなく、ただ、木々が自由に生い茂っていました。皇子様のおっしゃる、作られていない美しさが、そこにはありました」 「行きたいか」 月白が、彼女の顔を覗き込んだ。 「そこに、帰りたいか」 アヤは、答えられなかった。 帰る場所など、もうないのだ。
月白は、彼女の答えを待たずに、自分の袖から何かを取り出した。 「これを」 それは、一本の、新しい簪(かんざし)だった。 高価な銀細工に、小さな玉が揺れている。 「私には、似合いません」 アヤは、後ずさった。 「お前がいつも挿している、あの古い木の簪……」 月白は、彼女の髪に手を伸ばそうとした。 アヤは、思わずその手を避けてしまった。 「! あ……」 月白の手が、空中で止まる。 気まずい沈黙が、二人の間に落ちた。
「……失礼を、いたしました」 アヤは、深く頭を下げた。 「あの簪は、父の形見なのです。……これだけは、外すことができません」 「そうか。……いや、すまなかった」 月白は、寂しそうに銀の簪を袖に戻した。 「お前の父君は、どのような方だったのだ」 「……ただの、田舎の琴弾きでございました。ですが、音を、何よりも愛する人でした」 彼女は、そっと、髪に挿さった木の簪に触れた。 椿の文様が、月光にぼんやりと浮かび上がる。
「『音は、魂の言葉だ』と。父は、いつも申しておりました。『偽りの言葉は語れても、偽りの音は、すぐにわかる』と」 「……」 月白は、その言葉に、胸を突かれた。 「お前の音は、真実だ」 彼は、アヤの肩を、そっと掴んだ。 「アヤ。私は……」 月G白が、何かを言いかけた、その時。
「皇子!」 巴の、切羽詰まった声がした。 彼女は、茂みの影から、慌てた様子で走り寄ってきた。 「このような場所で、二人きりなど……! もし、景厳様のお耳に入ったら……!」 巴の言葉で、二人は我に返った。 月白は、苛立たしげに舌打ちをした。 「構わぬ。ここは私の庭だ」 「皇子!」 巴は、ほとんど泣きそうだった。 「どうか、お部屋へお戻りください。アヤ様も、もうお下がりください」
アヤは、月白の熱い視線を感じながら、その場に深く一礼した。 「……失礼いたします」 彼女は、巴の横をすり抜けて、足早に去っていく。 月白は、その場に立ち尽くし、彼女が挿していた木の簪が、闇に消えていくのを、見つめていた。
巴は、皇子の横顔を見つめながら、拳を握りしめていた。 (皇子を、お守りしなくては) 彼女の胸は、忠誠心と、言いようのない不安で、張り裂けそうだった。 そして、彼女の脳裏には、先ほど月光に照らされた、あの簪の文様が、焼き付いていた。
(あの花の形……まさか……) 巴は、幼い頃の記憶を手繰り寄せた。 十五年前。 都が、ある一族の「謀反」の噂で、血に染まった日。 彼女は、処刑場へ引き立てられていく人々を見た。 その者たちが身につけていた衣に、あの、椿の文様が染め抜かれていたのを。 「みやび……」 彼女は、その禁じられた名を、か細く呟いた。 血の気が、全身から引いていく。 (まさか、あの方は、宮家(みやびけ)の……?)
その頃、藤原景厳は、自室で、一巻の報告書を読んでいた。 部下が、息を潜めて、主人の反応を待っている。 「……アヤ。二十歳。表向きの戸籍は、山城の国の、遠縁の貴族の養女……」 景厳は、一つ一つ、指で文字をなぞっていく。 「実の親は、不明」 「はっ。そこから先が、どうしても……」 「分からぬ、では済まされぬぞ」 景厳の冷たい声が、室内に響く。
「……だが、面白いものが手に入った」 景厳は、別の紙束を取り出した。 それは、十五年前の、古い記録だった。 「『宮家(みやびけ)謀反の記録』。……懐かしい名だ」 景厳の目が、暗い光を宿した。 十五年前、宮家を「謀反人」として告発し、一族を根絶やしにしたのは、若き日の景厳自身だった。 「当主、宮楓(みやびかえで)……いや、これは当主の名か」 部下が、慌てて訂正する。 「いえ、景厳様。当主の名は、宮雅信(みやびまさのぶ)。その娘の名が『楓(かえで)』。当時五歳。……記録では、屋敷の炎の中で、母と共に焼死したと」 「焼死、か」 景厳は、鼻で笑った。 「死体は、確認されていない」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。 「あの時、宮家の血筋は、一人残らず絶やしたはずだった。……もし」 もし、生き残りがいたとしたら。 そして、その生き残りが、皇子の側に、琴の師として入り込んでいたとしたら。
「あのアヤという女が弾く、奇妙な曲とやら。……その旋律は、どのようなものだ」 「はっ。それは……」 部下は、耳で聞いた噂を、必死で伝えようとした。 景厳は、それを手で制した。 「いや、よい。……思い出した」 景厳の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。 宮家の当主、雅信は、捕らえられる直前まで、屋敷で琴を弾いていた。 その旋律は、雅楽とは似ても似つかぬ、魂を揺さぶる、恐ろしいほどに自由な音だった。 「『琴の声(ことのこえ)』。……一族に伝わる、禁じられた曲」 景厳の顔に、初めて、暗い笑みが浮かんだ。 「そうか。……そうであったか」
彼は、部下に命じた。 「皇子の側仕え、巴を呼べ。……いや、その必要はなくなった」 景厳は、確信していた。 巴は、もう気づいている。 あるいは、これから気づくだろう。 そして、皇子を守るために、彼女は「正しい」選択をする。 「罠は、仕掛け終わった。あとは、獲物が自ら、かかればよい」
次の日。 アヤは、東宮御所へ向かう足が、鉛のように重かった。 (皇子に、会ってはならない) 昨夜の、あの月明かりの下での出来事。 皇子の瞳に宿った熱。 それは、彼女が求めていた「復讐」や「無実の証明」とは、まったく別のものだった。 それは、彼女の心を溶かし、彼女をただの「女」に戻してしまう、危険な光だった。
(私は、宮楓だ。父上の無念を晴らすまでは……) 彼女は、髪の簪を、強く握りしめた。 その時だった。 背後から、呼び止められた。 「アヤ様」 女官の、巴だった。 巴の顔は、この世の終わりのように青ざめていた。 彼女は、アヤの手首を掴んだ。 「……お話ししたいことが、ございます」
その同じ頃。 東宮御所では、月白が、そわそわとアヤの到着を待っていた。 昨夜、渡せなかった、あの青い絹布を、彼は手元に置いていた。 (今日こそ、彼女に……) 彼は、まだ知らなかった。 彼が待つ女が、今、御所の外で、どのような運命の宣告を受けているのかを。
そして、藤原景厳は、朝議の場で、天皇の前に、静かに座っていた。 その手には、十五年前の『宮家謀反の記録』が、固く握られていた。 すべてが、動き出した。 もう、誰にも、止めることはできない。
東宮御所へ続く、冷たい石畳の上。 巴は、アヤの手首を掴んでいた。 その手は、氷のように冷たく、小刻みに震えている。 「アヤ様……いえ」 巴の声は、絞り出すようだった。 「あなたは、アヤ様、などという名ではないはず」 アヤの心臓が、大きく跳ねた。 空気が、急に薄くなる。 「……何を、おっしゃっているのですか。巴様」 「その簪(かんざし)!」 巴は、アヤの黒髪に挿された、あの古い木の簪を、震える指で指差した。 「その、椿の文様。……十五年前、宮家(みやびけ)が、謀反の罪で取り潰された日。……私は、見たのです。あの文様を!」
アヤは、息を止めた。 巴の目は、恐怖と、確信と、そしてわずかな懇願に満ちていた。 「あなたは、宮楓(みやびかえで)。……あの、炎の中で亡くなったはずの……!」 「違います」 アヤは、短く、強く否定した。 だが、その声は、自分でもわかるほど、震えていた。 「人違いです。私は、アヤ。ただの琴の師です」 「嘘です!」 巴は、声を荒げた。 「嘘です! あの音! あなたが弾く、あの『琴の声』! あれは、宮家に伝わる、禁じられた音。……皇子様を、惑わすための……!」
アヤは、巴の目を、まっすぐに見返した。 (惑わす?) その言葉が、彼女の胸に突き刺さった。 「私は、誰も惑わしてなどいない」 「では、なぜ皇子様の前に現れたのです!」 巴は、アヤの肩を掴んだ。 「皇子様が、どれほどあなたを……あの方の瞳を見れば、わかります。あの方は、あなたに、心を奪われている! もし、あなたの正体が知られれば……景厳様が、それを知れば……!」
巴は、言葉を詰まらせた。 「景厳様こそが、十五年前、あなたの一族を……宮家を、告発したお方。……あの日のすべてを、指揮したお方なのです!」 アヤは、知っていた。 知っていて、この御所に来たのだ。 藤原景厳。 父の、母の、一族の仇。 だが、巴の口からその名を聞くと、全身の血が逆流するような、激しい憎悪がこみ上げた。
「……だから、何だというのです」 アヤは、冷たく言い放った。 巴の動揺とは対照的に、彼女の心は、憎悪によって、硬く、冷たくなっていた。 「仇の懐に入り、皇子を利用して、復讐を果たすおつもりか!」 巴の言葉は、図星だった。 ……少なくとも、ここに来た時の、最初の目的は。 だが、今は? あの、孤独な皇子の瞳を知ってしまった今、彼女の心は、単純な「復讐」だけではなかった。 「……」 アヤが、答えに詰まった、その時。
巴は、アヤの前に、崩れるようにひざまずいた。 「……お願い、します」 巴は、泣いていた。 「逃げてください。今すぐに。……この都から、遠くへ」 「……」 「皇子様を、お救いください。あの方を、あなたの一族の、呪われた運命に、巻き込まないでください」 巴は、額を地面にこすりつけた。 「このままでは、皇子様は、破滅なさいます。景厳様は、皇子様が『謀反人の娘』と通じていると知れば、決して、お許しにはならない」
アヤは、ひざまずく巴を、冷ややかに見下ろしていた。 だが、その視線は、ゆっくりと、東宮御所の屋根へと移った。 今頃、あの人は、私を待っている。 私が弾く、「真実の音」を、待っている。 私を、「籠の中の鳥」と呼んだ、彼もまた、鳥籠の中にいる。 そして、私を、その籠から出してくれるかもしれない、唯一の人。
(私が、彼を、破滅させる……?) アヤの心が、激しく揺れた。 復讐のために、すべてを捨てたつもりだった。 だが、月白の優しさ、彼の孤独、彼が見せてくれた「世界」は、アヤの凍りついた心に、小さな火を灯してしまっていた。
その頃、御所の奥、朝議の場。 空気は、張り詰めていた。 藤原景厳が、静かに口を開いた。 「……東宮様の、ご婚儀の件でございますが」 天皇は、退屈そうにそれを聞いている。 「うむ。よきにはからえ」 「はっ。ですが、ここのところ、東宮様のご様子が、少々、常軌を逸しておられるとの、噂が」 ざわ、と、居並ぶ貴族たちの間に、動揺が走る。 景厳は、あえて、その動揺を楽しんでいるかのようだった。
「……何?」 天皇が、初めて、興味を示した。 「いえ、大したことではございません。ただ、最近、お側に置かれた琴の師の影響か、政(まつりごと)へのご興味を、ますます、失っておられると……」 「……琴の師、だと?」 「はい。素性も知れぬ、田舎の女とか。その女が、夜な夜な、奇妙な音楽を奏で、皇子様の心を、惑わしていると……」 景厳の言葉は、毒を含んだ針のように、静かに、だが確実に、人々の不安を突き刺していく。 「……不心得な。すぐに、その女を罷免せよ」 天皇が、吐き捨てるように言った。 「それが、できませぬ」 景厳は、困ったように首を振った。 「皇子様が、いたく、その女を、お気に入りでございまして。……下手に手を出すと、皇子様のお心が、さらに乱れてしまうのではないかと」
それは、完璧な罠だった。 景厳は、天皇に「皇子が、素性の知れぬ女に狂っている」と印象付けた。 「では、どうする」 「そこで、ご提案がございます。……隣国との同盟を兼ねた、姫君とのご婚儀。これを、早急に進めるべきかと。新しい『光』が入れば、皇子様のお心も、いずれ、その『影』から、離れましょう」 「……うむ。そうか」 天皇は、満足そうに頷いた。 「景厳。すべて、そなたに任せる」 「ははっ」 景厳は、深く、頭を下げた。 その能面のような顔の裏で、彼は、勝利を確信していた。 皇子の手足は、これで縛った。 あとは、あの「宮家の娘」を、どう始末するか。
東宮御所。 月白は、苛立っていた。 約束の刻限を、とうに過ぎている。 だが、アヤは、来ない。 「……どうしたのだ」 彼は、手元の、あの青い絹布を、握りしめた。 (まさか、昨夜のことで、私を、恐れたのか?) (いや、彼女は、そんな女ではない) 「誰か、おらぬか!」 月白が叫ぶと、控えていた従者が、慌てて駆けつけた。 「アヤを、琴の師のアヤを、すぐに、呼んで参れ。……いや、私が、迎えに行く」 月白が、立ち上がった、その時だった。
御所の入り口で、巴にひざまずかれていたアヤは、決心した。 彼女は、巴の腕を取った。 「……わかりました」 巴が、希望に満ちた顔で、アヤを見上げた。 「では、逃げて、くださるのですね?」 「いいえ」 アヤは、冷たく言い放った。 「皇子様の、お召しです」 「なっ……!」 「私は、琴の師、アヤ。皇子様が『弾け』と命じられる限り、私は、弾かなければなりません」 「あなた……! 皇子様を、道連れにするつもりですか!」 「道連れ?」 アヤは、哀れむように、巴を見た。 「巴様。あなたには、わからない。……あの音は、呪いではない。私と、皇子様をつなぐ、唯一の……」 「アヤ様!」 そこへ、皇子の従者が、息を切らして走ってきた。 「皇子様が、お待ちです! すぐに、お部屋へ!」
アヤは、巴の手を、振り払った。 そして、毅然として、立ち上がった。 「巴様。お心遣い、感謝いたします。ですが、私は、逃げません」 「……!」 巴は、絶望のあまり、その場にへたり込んだ。 アヤは、一度だけ、巴を振り返った。 その瞳には、もはや、迷いはなかった。 あるのは、炎のような決意だけだった。
(皇子様。あなたの鳥籠は、私が、この音で、壊してみせましょう) (たとえ、それが、私たち二人を、焼き尽くす炎になったとしても) アヤは、従者の後を追い、東宮御所の、光と影が渦巻く、その中心へと、再び足を踏み入れた。
東宮御所の、いつもの部屋。 空気が、昨日までとはまるで違っていた。 重く、張り詰め、何かが壊れる直前の、甲高い音がしているかのようだ。 月白は、苛立ちと不安を隠さずに、部屋の中を歩き回っていた。 「……遅かったではないか」 アヤが部屋に入ると、彼は、責めるような目で彼女を見た。 手には、あの青い絹布が握られている。
「申し訳ございません」 アヤは、深く頭を下げた。 その声には、いつもの静けさも、響きもなかった。 まるで、抜け殻のようだった。 月白は、彼女のその様子に、ますます苛立った。 「どうした。顔色が悪い。……巴が、何か言ったのか」 「……何も」 アヤは、顔を上げない。 彼女は、琴の前に座ろうともしなかった。 その態度は、明らかな「拒絶」だった。
「アヤ」 月白が、低い声で呼んだ。 「こちらへ来い」 アヤは、動かない。 「こちらへ、来いと言っている」 皇子の声には、命令の響きがあった。 アヤは、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、決意に満ちていた。 「……恐れながら、皇子」 彼女は、後ずさった。 「私は、本日限り、このお役目を、辞退させていただきたく存じます」
「……何?」 月白の顔から、血の気が引いた。 「辞める、だと? なぜだ。私が、気に入らぬか」 「いいえ。……私のような、卑しい身の者が、これ以上、皇子様のお側に仕えるのは、分不相応ゆえに」 「分不相応だと?」 月白は、乾いた笑い声を上げた。 「お前が、それを言うのか。私に『真実の音』を教えたお前が!」 彼は、アヤの腕を、乱暴に掴んだ。 「やめてください!」 アヤが、悲鳴に近い声を上げる。
「理由を言え!」 月白は、怒鳴った。 それは、彼が生まれて初めて見せる、荒々しい感情のほとばしりだった。 「私を恐れたか? それとも、景厳の差し金か? あの男が、お前を脅したのか!」 「違います!」 アヤは、彼の腕を振り払おうと、もがいた。 「私を、お側になど、置かないでください! 私は、あなた様を……!」 (あなた様を、破滅させてしまう) その言葉は、声にならなかった。
「私は、お前を、手放さぬ」 月白は、彼女を、自分の方へ強く引き寄せた。 二人の顔が、間近に迫る。 月白の瞳には、孤独と、飢えと、そして、危険なほどの独占欲が、燃えていた。 「お前は、私のものだ。お前の音も、お前の魂も」 彼は、そう言うと、あの青い絹布を、彼女の肩にかけた。 深い、海の色の絹。 「……これは」 アヤは、息を飲んだ。 絹布は、彼女の質素な衣の上で、皮肉なほど美しく輝いた。
「自由な国の、色だ」 月白は、囁いた。 「いつか、二人で、ここを抜け出す。この、作られた庭からも、景厳の視線からも……。遠い、遠い場所へ」 その言葉は、悪魔の誘惑のように、甘かった。 アヤは、震えていた。 (この人は、知らないのだ) (私が、誰なのか。この人が求めている『自由』が、どれほどの血を流させるのか)
「……皇子様」 アヤの瞳から、一筋、涙がこぼれた。 「おやめください。……あなたは、何も、ご存知ない」 「何を知らぬというのだ」 「私の、正体を」 月白は、彼女の涙を見て、一瞬、怯んだ。 「お前の正体? お前は、アヤだろう。私の、琴の師だ」 「……いいえ」 アヤは、ゆっくりと首を振った。 彼女は、月白の手を、そっと押し返した。 そして、彼から数歩、離れた。 肩にかけられた青い絹布が、はらりと床に落ちた。 彼女は、それを、踏み越えた。
アヤは、まっすぐに、琴の前に歩み寄った。 そして、そこに、静かに座した。 「……私の、正体。……私の、音」 彼女は、髪に挿さった、あの古い、木の簪(かんざし)を、ゆっくりと引き抜いた。 黒い髪が、彼女の肩に、滝のように流れ落ちる。 月白は、その姿に、息を飲んだ。 それは、彼が知っている、従順な「アヤ」ではなかった。 それは、彼がまだ知らない、気高く、恐ろしく、そして、悲しいほどに美しい、誰かだった。
「皇子様」 彼女は、彼に背を向けたまま、言った。 「あなたが、本当に聴きたかった、『真実の音』。……それを、今、お聞かせいたします」 彼女は、簪を、琴の横に置いた。 あの、椿の文様が、月白の目に、はっきりと飛び込んできた。 (あの文様は……?) 月白の胸が、騒ぎ始めた。
アヤの指が、弦に触れた。 ポロ、と鳴った最初の音は、もう、わらべ歌の旋律ではなかった。 それは、雷鳴のようだった。 激しく、深く、すべての偽りを引き裂くような音。 彼女は、目を閉じていた。 十五年間の、憎しみ、悲しみ、孤独、そして、目の前の男への、許されない想い。 そのすべてを、指先に込めた。
『琴の声(ことのこえ)』。 宮家(みやびけ)に伝わる、禁じられた旋律。 それは、雅楽の調和を、根底から覆す、自由な魂の叫び。 それは、権力者に「否」を突きつける、反逆の音。 音は、部屋の空気を震わせ、壁を越え、東宮御所の外へと、響き渡っていく。
月白は、動けなかった。 彼は、その音に、圧倒されていた。 これは、ただの音楽ではない。 これは、彼女の、血の叫びだ。 彼は、恐ろしくなった。 同時に、その音の、荒々しいまでの美しさに、恍惚としていた。
その頃、御所の外。 巴は、藤原景厳の屋敷の門前で、崩れ落ちていた。 (間に合わなかった) 彼女は、アヤの決意に満ちた背中を見た後、恐怖に駆られて、ここまで走ってきた。 皇子を守るため。 その一心で、すべてを景厳に告白し、皇子を「あの女」から引き離してもらおうと。 だが、景厳の屋敷の門は、固く閉ざされていた。 (いや、違う。私が行くべきは、ここではない) 巴は、よろめきながら立ち上がった。 (皇子様の、お側だ。あのお二人が、取り返しのつかないことになる前に!) 彼女は、再び、東宮御所へと、引き返し始めた。
東宮御所、景厳の息のかかった間者(スパイ)が、庭の茂みに隠れていた。 彼は、部屋から漏れ聞こえてくる、あの、ありえない「音」に、耳を澄ませていた。 (これだ。……景厳様が、探しておられた『音』だ) 彼は、すぐにその場を離れ、主人の元へ、報告に走った。
そして、部屋の中。 アヤの指が、最後の、激しい一音をかき鳴らした。 弦が、ぶつり、と、一本、切れた。 甲高い、断末魔のような音がして、すべてが、静寂に包まれた。 部屋に残ったのは、切れた弦の、悲しい余韻だけ。
アヤは、荒い息をついていた。 顔は、蒼白だった。 彼女は、ゆっくりと、月白の方を振り返った。 その瞳は、涙で濡れていた。 「……これが、私です」 月白は、彼女の前に、よろよろと歩み寄った。 「……今の、曲は……」 「『琴の声』」 彼女は、はっきりと、その名を告げた。 「私の、一族の……宮家(みやびけ)の、曲です」 「みやび……?」 月白の顔から、表情が消えた。 「そうだ。あの、謀反の……」 「謀反では、ありません」 アヤの声が、震えた。 「父は、殺されたのです。景厳に、濡れ衣を着せられて!」
「……!」 月白は、言葉を失った。 アヤ。いや、楓(かえで)。 彼女の正体。 彼女の目的。 そして、彼女が自分に向けていた、あの優しい眼差し。 すべてが、頭の中で、渦を巻いた。 「……お前は、私を、利用したのか」 月白の、か細い声が、静寂を破った。 「私に近づき、景厳に……復讐するために」
アヤは、首を振った。 涙が、畳の上に落ちた。 「……最初は、そうでした」 彼女は、正直に告白した。 「ですが、今は……! あなたの孤独に触れ、あなたの優しさに触れ……私は……!」 彼女が、何かを言いかけた、その時。
バタン! 部屋の扉が、荒々しく開け放たれた。 そこに立っていたのは、藤原景厳ではなかった。 武装した、皇宮警察の兵士たちだった。 彼らの後ろから、巴が、絶望に満ちた顔で、転がり込んできた。 「皇子様! お逃げ……!」 そして、兵士たちの間を割って、ゆっくりと、一人の男が、姿を現した。
大納言、藤原景厳。 彼の顔は、いつもの、能面のような無表情だった。 だが、その目だけが、獲物を仕留めた鷹のように、冷たく、鋭く、光っていた。 「……夜分に、お騒がせいたしますな。東宮様」 景厳は、月白に、深く一礼した。 そして、その視線を、ゆっくりと、アヤ(楓)に移した。 床に落ちた、青い絹布。 切れた弦の、琴。 そして、その横に転がる、椿の文様の、木の簪。 景厳は、それを、つま先で、ことり、と転がした。 「……ようやく、見つけ申したぞ」 彼の声は、満足げだった。 「宮家(みやびけ)の、最後の、生き残り」
空気が、凍りついた。 皇宮警察の兵士たちが、冷たい鎧の音を立て、部屋を取り囲む。 巴は、畳の上で「あ……あ……」と、意味のない声を発し、震えている。 月白は、目の前の光景を、理解できなかった。 いや、理解することを、脳が拒否していた。
「景厳……。何の、まねだ」 皇子の声は、かろうじて、絞り出された。 「兵を連れ、私の許しなく、東宮御所に押し入るとは。……無礼であろう」 景厳は、表情一つ変えなかった。 「皇子様。ご無礼は、承知の上。ですが、これは、国の一大事にございますゆえ」 彼は、ゆっくりと、月白とアヤ(楓)の間に入った。 二人を、物理的に、引き裂くように。
「アヤと、申しましたかな」 景厳は、アヤ(楓)の前に立った。 アヤ(楓)は、顔を上げ、その男を、憎しみを込めて、まっすぐに見つめた。 十五年間、夢の中で、幾度も殺してきた、仇。 「……」 「いや。その名は、偽り」 景厳は、床に落ちた、椿の文様の簪を、拾い上げた。 「宮楓(みやびかえで)。……十五年前、父、雅信と共に、謀反を企てた、罪人の娘」 「父は、謀反など、企てておりません!」 アヤ(楓)が、叫んだ。 「あなたが、その汚い手で、父を、一族を、陥れたのです!」
「楓!」 月白が、彼女の名を呼んだ。 その声は、彼女の告白を、止めるためのものだったのか。 それとも、ただの、驚愕だったのか。 景厳は、その叫びを、楽しむかのように、静かに聞いた。 「……ほう。今、自ら、認められましたな」 「!」 アヤ(楓)は、唇を噛んだ。 しまった。感情に任せて、自ら正体を明かしてしまった。
景厳は、満足そうに、月白に向き直った。 「東宮様。お聞きになりましたか。……この女は、国賊の娘。そして、その血を引く者。……法によれば、皇族を欺いた罪、そして、謀反人の血統であるという罪、ただそれだけで、死罪に値します」 「……やめろ」 月白が、低い声で言った。 「景厳。お前の芝居は、もう、うんざりだ」 月白は、一歩、前に出た。 「その女の父が、本当に謀反人であったかどうか。……それを、今、ここで、裁き直す」 「皇子!」 巴が、悲鳴を上げた。 (なりません、皇子様、そのお言葉は……!)
景厳は、初めて、心底、楽しそうに、口元を歪めた。 「……裁き直す、と、おっしゃいますか。皇子様」 「そうだ。私は、次期天皇となる身。……十五年前の裁きが、もし、お前の、藤原家の権力のために歪められたものであったなら……」 「皇子様」 景厳の声が、氷のように、月白の言葉を遮った。 「そのお言葉は、現天皇陛下の、ご治世そのものを、お疑いになると、お聞きしても?」
月白は、息を飲んだ。 そうだ。 十五年前の裁きを、覆すということは、父である天皇の決定を、否定することになる。 それは、皇子という立場であっても、許されない「反逆」に等しい。 「……」 月白の言葉が、詰まる。 彼の正義感も、皇子としての権力も、景厳が、何十年もかけて築き上げた、この「法」と「秩序」という、巨大な壁の前では、あまりにも、無力だった。
「……兵士たち。何を、しておる」 景厳が、冷たく命じた。 「罪人を、捕らえよ」 「待て!」 月白が、叫んだ。 兵士たちが、一瞬、ためらう。 一人は、皇子。 一人は、大納言。 どちらに、従うべきか。
景厳は、ため息をついた。 「……やむを得ませんな」 彼は、巴の方を見た。 「巴」 「は……はい!」 巴は、恐怖に、飛び上がった。 「お前は、長く、皇子様にお仕えし、十五年前の、あの事件のことも、覚えておろう」 「あ……あ……」 「あの簪(かんざし)。……お前が、最初に、気づいたのでは、ないか?」 景厳の、蛇のような目が、巴を射抜いた。 巴は、月白を見た。 月白は、「言うな」と、目で、必死に訴えている。 巴は、次に、アヤ(楓)を見た。 アヤ(楓)は、すべてを諦めたように、静かに、二人を見つめている。
巴は、わなわなと震えた。 (私が、ここで、認めなければ……) (だが、認めなければ、景厳様は、私の一族を……) (それに、私が認めなくても、この女は、もう、罪人として……) (ああ、皇子様。なぜ、このような……!) 「……巴。答えよ」 景厳の、追い詰めるような、低い声。
巴は、目を、ぎゅっと、つぶった。 そして、涙を、だらだらと流しながら、叫んだ。 「……存じて、おりました!」 その声は、彼女自身の、裏切りの告白だった。 「あ、あの簪は……! み、宮家(みやびけ)の、文様に……そっくり、でございました!」 月白の顔が、絶望に、歪んだ。 自分に、一番、忠実だと思っていた、巴の、その言葉が、彼に、最後の一撃を与えた。 「……巴。お前まで……」
「巴。よく、申した」 景厳は、満足げに頷いた。 「東宮様。これでも、まだ、この女を、お庇いになりますか? あなた様の、乳母代わりであった、巴の、証言でございますぞ」 月白は、何も、言い返せなかった。 「……兵士たち。何をしておる。捕らえよ!」 景厳の、今度は、雷のような、鋭い声が響いた。 もう、ためらう者はいなかった。 二人の兵士が、アヤ(楓)の両腕を、荒々しく掴んだ。 「!」 アヤ(楓)は、抵抗しなかった。 ただ、最後に、月白の顔を、焼き付けるように、見つめた。 その瞳は、彼を、責めてはいなかった。 ただ、どうしようもない、深い、深い、悲しみを、たたえていた。
「やめろ……。やめろ!」 月白が、叫び、兵士に、掴みかかろうとした。 だが、別の兵士が、彼の前に立ちふさがり、その行く手を、阻んだ。 「皇子様。ご無礼を!」 「離せ! 私は、皇子だぞ! 離さぬか!」 「楓! 楓!」 月白は、生まれて初めて、獣のように、叫んだ。
アヤ(楓)は、兵士たちに、引きずられるように、部屋から、連れ出されていった。 彼女は、一度も、振り返らなかった。 ただ、彼女がいつも挿していた、あの古い、木の簪だけが、景厳の足元に、打ち捨てられて、残った。
部屋に残されたのは、月白と、景厳と、そして、床に突っ伏して、声を殺して泣く、巴だけだった。 荒々しい、兵士たちの足音が、遠ざかっていく。 「……景厳」 月白の声は、怒りを通り越して、冷え切っていた。 「……お前を、許さぬ」 「お許しなど、いただこうとも、思っておりません」 景厳は、平然と答えた。
彼は、ゆっくりと、月白の前に、座した。 「東宮様」 その声は、まるで、子供に、道理を、言い聞かせるようだった。 「あなたは、まだ、お分かりになっていない」 「……何?」 「あなたが、今、なさろうとしたこと。……それは、ただ、一人の女を、救おうとしたことでは、ございません」 景厳は、指を、一本、立てた。 「それは、国を、二つに、割ることです」 「……」 「十五年前の裁きを、覆す。……それは、藤原家と、それに連なる、すべての貴族を、敵に回すこと。……そして、何より、現天皇陛下への、反逆とみなされます」
景厳は、もう一本、指を立てた。 「その結果、どうなるか。……内乱、でございます。……この、かろうじて保たれてきた、都の平和が、血に塗れます。……あなたが、あの女一人に、心を奪われた、ただ、それだけのことで」 月白は、唇を、噛みしめた。 血の味が、口の中に、広がった。 景厳の言うことは、正しかった。 恐ろしいほど、正確に、この国の、政治の「真実」を、突いていた。
「……では、私に、どうしろと」 月白は、絞り出すように、言った。 「私に、黙って、彼女が、殺されるのを、見ていろと?」 「左様」 景厳は、即答した。 「それが、次期天皇として、あなたが、お選びになるべき、『道』でございます」 景厳は、立ち上がった。 「……ですが」 彼は、初めて、ほんの少し、同情するような(あるいは、そう見せかけた)顔をした。 「私も、鬼では、ございません。……東宮様に、一つの、選択肢を、差し上げましょう」 「……選択肢?」
景厳は、袖から、一通の、書状を取り出した。 「隣国の姫君との、ご婚儀。……これを、お受けなさいませ」 「……!」 「ご婚儀を受け入れ、国の安寧を、お選びになる、と、民に、お示しください。……さすれば」 「……さすれば?」 「あの女の、処刑を……。数日、先に、延ばしましょう」 「……なっ」 月白は、愕然とした。 「延ばすだけか! 救うのでは、ないのか!」 「救う?」 景厳は、心底、不思議そうに、首を傾げた。 「皇子様。罪人は、救えませぬ。……法治国家において、それは、あり得ないこと。……ただ、あなたの、お心の、整理のため。……数日、猶予を、差し上げる、と、申しております」
それは、選択肢などでは、なかった。 それは、絶対的な、絶望だった。 彼女の命を、数日、延ばすことと、引き換えに。 彼女を、裏切り、別の女と、結婚する、という、屈辱。 どちらを選んでも、地獄。 どちらを選んでも、楓(かえで)は、死ぬ。 そして、どちらを選んでも、月白の魂は、死ぬ。
「……皇子様。ご返答は、明日の朝議までに、お聞かせください」 景厳は、冷たく、言い放った。 「……もし、ご返答、いただけぬ場合は。……あの女は、法に基づき、今宵のうちに、処刑、されますゆえ」 「……!」 月白は、景厳の、その背中を、殴りつけることさえ、できなかった。 彼は、その場に、崩れ落ちた。 権力とは、これか。 皇子という、その地位は、この男の前では、何の力も、持たないのか。 彼が求めた「自由」とは、何だったのか。 彼女が、命をかけて、奏でた「真実の音」は、何のために、あったのか。
景厳は、部屋を、出て行った。 残されたのは、打ち捨てられた、青い絹布と。 床に突っ伏して、絶望に、声を失った、皇子だけだった。
夜が、始まった。 東宮様にとって、そして、牢獄の楓(かえで)にとって、最も長く、暗い夜が。 東宮御所は、墓場のように、静まり返っていた。 月白は、荒らされた部屋の、真ん中に、座っていた。 兵士たちが、楓を連れ去った後、彼は、書物を投げ、壺を割り、目に見える、すべての「美しく、偽りのもの」を、破壊した。 だが、心の中の、絶望は、少しも、軽くはならなかった。
床には、あの、青い絹布が、泥にまみれたかのように、落ちている。 (自由な国の、色) なんと、愚かな、子供の夢だったことか。 彼は、その絹布を、拾い上げた。 その感触は、もはや、柔らかくも、暖かくもなかった。 それは、彼が、彼女に、着せた、死装束のように、感じられた。
彼の前には、弦の切れた、琴。 そして、その横に、景厳が、あえて、置いていった、あの、古い、木の簪(かんざし)。 椿の文様。 宮家(みやびけ)の、誇り。 彼は、それを、そっと、手に取った。 指に、木の、硬く、だが、温かい感触が、伝わる。 それは、彼女の、生きてきた、証(あかし)そのものだった。 (私は、この、簪一つさえも、守れなかった)
(お前は、私を、利用したのか) 昼間、自分が、彼女に、投げつけた、愚かな言葉が、蘇る。 利用? 違う。 彼女は、命をかけて、彼に、訴えていたのだ。 「あなたのいる世界は、偽物だ」と。 「真実の音」で、彼を、その鳥籠から、解き放とうと、してくれていたのだ。 そして、彼は、その音を、愛してしまった。 彼女の、魂を、愛してしまった。
だが、景厳の、あの冷たい言葉が、彼の耳に、こびりついて、離れない。 『内乱、でございます』 『あなたが、あの女一人に、心を奪われた、ただ、それだけのことで』 そうだ。 彼が、皇子である、という、その現実。 彼の、一つの、感情的な選択が、この都を、血の海に、沈める。 彼は、彼女の命と、何万もの、民の命を、天秤に、かけられていた。
「……ああ……ああああ……!」 彼は、声を殺して、泣いた。 皇子として、生まれて初めて、声を上げて、泣いた。 だが、涙は、何の、解決にも、ならない。 夜明けまでに、決めねばならない。 彼女の、今夜の、処刑か。 それとも、彼女の、数日後の、処刑と、引き換えの、屈辱的な、結婚か。 どちらを選んでも、彼は、楓を、見殺しに、することに、変わりは、なかった。
その頃、御所の、最も、暗く、湿った、地下牢。 楓(かえで)は、冷たい、石の床に、座っていた。 もう、「アヤ」の、柔らかな、衣は、着ていない。 牢獄の、粗末な、麻の、小袖だけが、彼女の、体を、包んでいた。 だが、その背筋は、まっすぐに、伸びていた。
彼女は、もう、泣いてはいなかった。 景厳の前に、引き出され、罪人として、扱われた時、彼女の中の、何かが、終わったのだ。 父の、復讐? 無実の、証明? すべてが、無意味に、思えた。 彼女は、負けたのだ。 景厳の、その、巨大な、権力と、この時代の、狂った「法」に。
だが、彼女の、心を、本当に、苛んでいるのは、別のことだった。 (……皇子様) あの人の、最後の顔。 自分を、守ろうと、必死で、叫んでいた、あの、孤独な、瞳。 (……ごめんなさい) 彼女は、心の中で、謝った。 (私は、あなたを、利用した、卑しい女。……なのに、あなたは、私に、光を、くれた) (私の音を、『真実』と、言ってくれた) (あの、青い絹布……。あれは、私の、生涯で、ただ一つの、宝物でした)
彼女は、自分を、責めた。 復讐心に、燃え、あの人の、優しさに、甘えてしまった、自分を。 自分が、もっと、うまく、立ち回っていれば。 いや、そもそも、出会わなければ、あの人は、傷つかずに、済んだのだ。 (これで、いい) 彼女は、思った。 (私が、死ねば、すべてが、終わる。……皇子様は、私という『影』から、解放される) (どうか、お幸せに。……たとえ、それが、偽りの、鳥籠の、中だとしても) 彼女は、そっと、目を閉じた。
御所の、片隅。 女官の、巴(ともえ)は、自室で、ろうそくの、炎を、見つめていた。 彼女の、裏切りの、告白が、すべてを、決定づけた。 彼女は、皇子を「守る」ために、皇子の、心を、殺したのだ。 (皇子様、お許しください……。楓様、お許しください……) 彼女は、畳に、額を、こすりつけ、泣き続けた。 だが、後悔は、あまりにも、遅すぎた。 彼女の、罪悪感は、夜の闇と共に、深く、深く、彼女の、魂を、蝕んでいった。
東の空が、白み始めていた。 夜明けだ。 景厳の、定めた、期限が、来た。 東宮御所。 月白は、座ったまま、夜を、明かした。 その顔は、まるで、死人のように、蒼白だった。 だが、その瞳は……。 その瞳は、昨日までの、揺らぎ、悩み、苦しんでいた、青年の、それとは、違っていた。 そこには、何も、映っていなかった。 すべてを、諦め、すべてを、受け入れた、絶対的な、虚無。 深い、深い、絶望の、淵の、色だった。
彼は、ゆっくりと、立ち上がった。 床に、散らばった、書物、割れた、壺の、破片を、踏みしめて、歩く。 彼は、鏡の前に、立った。 そこに、映っていたのは、疲れ果てた、一人の、男だった。 彼は、その男に、別れを、告げた。
彼は、従者を、呼んだ。 「……朝議の、支度を」 その声は、低く、乾いていて、彼自身の、声とは、思えなかった。 従者たちは、皇子の、変わり果てた、その姿に、息を飲んだ。 月白は、あの、古い、木の簪(かえでのかんざし)を、強く、握りしめた。 (……楓) (これが、私の、選んだ、道だ) (お前を、救うことさえ、できない、無力な、私の、最後の……) 彼は、簪を、そっと、懐に、しまった。 そして、朝議が開かれる、本殿へと、一歩、一歩、死刑台へ、向かう罪人のように、重い、足取りで、歩き始めた。
朝議の、冷たい、空気が、肌を刺す。 天皇が、玉座に座し、居並ぶ、貴族たちが、息を潜めている。 そこに、皇子、月白が、姿を現した。 その瞬間、すべての視線が、彼に、集中した。 月白の顔は、能面のように、無表情だった。 昨日までの、悩み、揺れていた、青年の面影は、どこにもない。 そこにいたのは、感情を、完全に、殺しきった、次期天皇の「器」だった。
藤原景厳が、その姿を、満足げに、観察している。 (……ようやく、お覚悟が、決まられたようだ) 景厳は、月白が、どちらの「地獄」を選んだのか、すでに、わかっていた。
「……東宮様」 天皇が、不機嫌そうに、口を開いた。 「昨夜は、御所が、騒がしかったと、聞く。……例の、琴の師の、件か」 「……」 月白は、ゆっくりと、父である、天皇の前に、進み出た。 そして、その場に、深く、深く、ひざまずいた。 「父上。……いえ、天皇陛下」 その声は、乾いていたが、不思議なほど、よく、通った。 「昨夜は、私の、不徳により、皆様を、お騒がせいたしましたこと、深く、お詫び、申し上げます」
貴族たちが、息を飲む。 あの、誇り高き、月の君が、自ら、頭を、下げている。 「……東宮様。顔を、お上げなさい」 景厳が、あえて、穏やかな声で、言った。 「陛下は、皇子様の、お心を、案じておられるのです」 月白は、顔を上げず、続けた。
「……かの、琴の師。……いえ、国賊、宮楓(みやびかえで)の、処遇について。……法に、則り、厳正に、処分されますよう、臣下の一人として、お願い、申し上げます」 「……!」 その場にいた、誰もが、耳を、疑った。 月白が、自らの口で、楓の、処刑を、求めたのだ。 景厳さえも、一瞬、驚きの表情を、浮かべた。 (……なるほど。そこまで、覚悟されたか) 景厳は、予想以上の、皇子の「成長」に、満足した。
「……うむ」 天皇が、頷いた。 「皇子とて、法には、逆らえぬ。……景厳、よきに、はからえ」 「ははっ」 景厳が、深く、頭を下げる。 月白は、まだ、ひざまずいたまま、動かない。 彼は、次の、言葉を、待っていた。 景厳が、自分に、突きつける、もう一つの、要求を。
「……して、皇子様」 景厳が、まるで、何もかも、忘れたかのように、明るい声で、言った。 「先日、お話に、上がっておりました、隣国の、姫君との、ご婚儀。……こちらも、国の、安寧のため、早急に、進めとうございますが。……皇子様の、お心は、いかがでございましょうか」 これは、儀式だった。 景厳が、仕組んだ、公開処刑。 月白の、心を、すべての、貴族たちの、目の前で、殺すための、儀式。
月白は、ゆっくりと、顔を上げた。 その目は、もはや、何も、映してはいなかった。 「……大納言の、お考えのままに」 「……」 「すべて、お任せ、いたします」 その言葉は、彼が、自らの、人生の、すべてを、放棄した、という、宣言だった。 自由も、愛も、魂も。 彼は、次期天皇という、役を、演じるため、すべてを、差し出したのだ。
「……皇子様! なんと、ご立派な、ご決断!」 「これぞ、次代の、君主の、お姿!」 貴族たちが、一斉に、彼を、称賛し始めた。 その、偽りに、満ちた、称賛の、声の、中で。 月白は、ただ、懐に、しまった、あの、古い、木の簪(かんざし)の、感触だけを、確かめていた。 (楓。……すまない) (だが、お前が、死ぬまでの、数日間。……その、数日間の、猶予だけは、私が、私の、魂と、引き換えに、手に入れた) (それだけが、私の、最後の、抵抗だ)
その頃、地下牢。 楓(かえで)の元に、朝の、粗末な、食事が、運ばれてきた。 だが、食事と、共に、一つの、知らせが、もたらされた。 看守が、無慈悲に、言い放った。 「……皇子様が、お前の、処刑を、お決めになったぞ」 「……」 楓は、動かなかった。 「それだけではない。皇子様は、隣国の、姫君と、ご婚儀を、お決めになられたそうだ」 「……」 「お前のような、国賊に、心を、惑わされた、と、陛下に、お詫び、なさったとな」 看守は、あざ笑うように、言った。 「お前の、命も、あと、数日、というわけだ。……皇子様の、ご慈悲、だな」 鉄の扉が、音を立てて、閉まる。
楓は、一人、闇の中に、残された。 彼女は、壁に、もたれかかった。 (……そう、ですか) 胸が、痛む、と、思った。 だが、涙は、出なかった。 (……それで、よかったのです) (皇子様。あなたは、正しい、選択を、なさいました) (私一人の、命よりも、国の、安寧を) (それが、あなたという、お方。……私が、愛した……) 愛した? 彼女は、ハッとした。 (……私は、あの人を) 憎しみの、復讐の、道具として、近づいたはずの、あの人を。 いつのまにか、心の、底から、愛して、しまっていたのだ。 その、どうしようもない、事実に、気づいた時。 彼女の、目から、こらえていた、涙が、初めて、あふれ出た。
それは、処刑を、恐れる、涙ではない。 復讐が、果たせなかった、無念の、涙でもない。 ただ、愛する人が、自分を、捨てて、別の、女性と、結ばれる、という、その、どうしようもない、悲しみ。 ただの、一人の、「女」としての、涙だった。
御所の、片隅。 巴(ともえ)は、朝議の、結果を、聞いた。 皇子が、自ら、楓の、処刑を、求め、婚儀を、受け入れた、と。 (……ああ……ああ……!) 巴は、その場に、崩れ落ちた。 (私が、皇子様を、追い詰めた!) (私が、あのお二人を、引き裂いた!) 皇子を、守ろうとした、自分の、浅はかな、行動が、皇子の、心を、完全に、破壊して、しまった。
(このままでは、いけない) 巴は、震える、手で、涙を、拭った。 (皇子様は、あんな、目をしたまま、生きてはいけない) (そして、あの、楓様も。……あんな、気高い、お方を、国賊として、死なせては、ならない) 彼女の、心の中で、罪悪感が、恐ろしいほどの、決意に、変わった。 彼女は、皇子を、裏切った。 彼女は、楓を、裏切った。 だが、最後に、たった一つだけ、彼女に、できることが、あるはずだ。 (景厳様は、あのお方を、数日後に、処刑する、と、おっしゃった) (……数日) その、数日の間に、巴は、何を、すべきか。 いや、何を、しなくては、ならないか。 彼女は、立ち上がった。 その足は、ふらついていたが、その目は、狂気に、近い、光を、宿していた。 彼女は、蔵人所(くろうどどころ)の、薬を、管理する、部屋へと、向かった。 (……許されぬ、罪を、犯した、私だからこそ、できる、最後の、お務め)
皇子が、自らの、死んだ、心と、引き換えに、手に入れた、数日間の、猶予。 それは、嵐の前の、不気味な、静けさだった。 都は、皇子の、ご婚儀の、準備で、にわかに、活気づいている。 その、祝祭の、雰囲気こそが、地下牢の、楓(かえで)の、処刑への、カウントダウン、そのものだった。
月白は、東宮御所に、閉じこもった。 彼は、誰とも、会わなかった。 ただ、朝、夕、決められた、公務にだけ、感情のない、人形のように、顔を出し、そして、また、自室の、闇に、戻る。 彼は、食事も、ほとんど、手につけなかった。 ただ、懐に、入れた、あの、古い、木の簪(かんずし)の、感触だけを、確かめ、生きている。
(……楓) (お前は、今、何を、思っている) (私を、憎んでいるか。……軽蔑、しているか) (それで、いい。……私を、憎め。……そして、どうか……) 彼の、願いは、言葉にならなかった。
処刑の、前日と、定められた、夜。 月が、まるで、血に、濡れたように、赤い、夜だった。 月白は、ついに、動いた。 彼は、東宮御所を、自ら、抜け出し、ただ、一人、大納言、藤原景厳の、屋敷へと、向かった。
「……東宮様。このような、夜更けに、いかがなされました」 景厳は、動揺、一つ、見せず、その、死人のような、顔をした、皇子を、迎えた。 「……明日の、儀(ぎ)の、ことで、あれば、万事、滞りなく……」 「……景厳」 月白の、声は、砂漠の、砂のように、乾いていた。 「……頼みが、ある」 「……ほう。この、私に、で、ございますか」 景厳は、興味深そうに、目を、細めた。 もはや、この皇子に、何が、残っているというのか。
「……私の、魂は、お前に、くれてやった」 月白は、景厳の、目を、まっすぐに、見た。 その、虚無の、瞳に、景厳は、一瞬、たじろいだ。 「……婚儀は、受け入れよう。……お前の、望む、人形として、残りの、人生、すべてを、生きてやろう」 「……」 「……だから、最後に、一つだけ。……一つだけ、許せ」 月白の、手は、懐の、簪を、握りしめ、震えていた。 「……あの女に、琴を」 「……何と?」 「あの女の、琴だ。……牢へ、届けて、やってくれ」 「……」 景厳は、皇子の、意図が、読めなかった。 「……処刑の、前に、琴を、弾かせろ、と? ……正気、で、ございますか。……罪人に、そのような、情けは……」
「情け、ではない!」 月白が、声を、荒げた。 「……これは、私の、ための、儀式だ」 彼は、自嘲気味に、笑った。 「……私の、心を、殺した、あの、音を。……私の、手で、完全に、葬り去るための、儀式だ。……あの女の、最後の、音を、この耳で、聞き、私の、愚かな、夢の、終わりを、確認する」 月白の、言葉は、狂気に、満ちていた。 だが、景厳には、それこそが、皇子が、完全に、屈服した、証拠に、見えた。 (……なるほど。……愛した、女の、最後の、音を、自ら、聞くことで、己の、心を、処刑する、か) それは、景厳の、理解、を超える、感傷。 だが、面白い、見世物では、ある。
「……よろしいでしょう」 景厳は、頷いた。 「……東宮様の、お心の、整理の、ために、それが必要と、いうのであれば。……大納言として、最大限の、配慮を、いたしましょう」 「……」 「……あの女の、琴を、今宵、牢へ、届けさせます。……存分に、お聞き届け、くださいませ。……『宮家(みやびけ)』の、最後の、音を」 月白は、何も、言わなかった。 ただ、深く、一礼し、その場を、去った。 その、背中は、まるで、百年、歳を、とった、老人のように、丸く、見えた。
その、同じ、頃。 地下牢に、一人の、人影が、近づいていた。 女官、巴(ともえ)だった。 彼女の、顔は、月白と、同じように、蒼白だったが、その、目には、決意の、光が、宿っていた。 彼女は、袖の下に、小さな、薬の、包みを、隠し持っていた。
「……巴、様」 牢の、中で、楓(かえで)が、驚いて、顔を上げた。 「……なぜ、あなたが」 「……お静かに」 巴は、看守に、見えないよう、素早く、格子に、近づいた。 彼女は、持ってきた、粗末な、食事と、水差しを、差し入れた。 「……看守には、最後の、食事を、届ける、と、言って、参りました」 「……」 巴は、楓の、前に、ひざまずいた。 「……楓様」 彼女は、格子越しに、額を、床に、こすりつけた。 「……私を、お許し、くださいとは、申しません」 「……」 「……私こそが、あなたを、景厳様に、売り、皇子様を、地獄に、突き落とした、張本人。……この、罪は、万死に、値します」 楓は、静かに、巴を、見つめていた。 その、目には、憎しみは、なかった。 ただ、深い、諦観が、あるだけだった。
「……巴様。顔を、お上げください」 楓の、静かな、声が、響いた。 「……あなたも、また、運命に、縛られた、一人。……皇子様を、お守り、したかった、あなたの、お心は、私にも、わかります」 「……楓、様」 巴は、声を、上げて、泣き崩れた。 楓の、その、赦(ゆる)しが、何よりも、彼女の、心を、えぐった。 「……だからこそ、私は、参りました」 巴は、涙を、拭い、袖の、下から、あの、薬の、包みを、取り出した。 「……これは?」 「……蔵人所(くろうどどころ)の、秘薬に、ございます」 巴の、声が、震えた。 「……眠るように、安らかに、逝く、ことができる、薬です。……決して、苦しむことは、ございません」 「……!」 楓は、息を、飲んだ。
「……明日の、朝。……あなたは、国賊として、引き出され、市中を、晒(さら)された上、打ち首に、なります」 巴は、必死で、言葉を、続けた。 「……私は、それだけは、耐えられない。……あの、気高い、皇子様の、心を、奪った、あなたが、獣のように、扱われ、死んでいくことだけは!」 「……」 「……これは、私の、最後の、贖罪(しょくざい)。……いいえ、私の、最後の、わがままです。……どうか、これをお飲みになり、宮家(みやびけ)の、誇りを、持ったまま、お旅立ち、ください。……皇子様の、名誉を、お守りするために」
楓は、その、小さな、薬の、包みを、見つめた。 巴の、言う通りだった。 法による、処刑。 それは、彼女の、身体、だけでなく、彼女の、尊厳、そして、彼女を、愛した、月白の、名誉をも、踏みにじる、もの。 この、薬は、巴が、差し出した、最後の「慈悲」であり、「誇り」だった。
「……ありがとう、ございます。巴様」 楓は、そっと、その、包みを、受け取った。 「……あなたの、お心を、確かに、受け取りました」 巴は、もう、何も、言えなかった。 ただ、嗚咽を、漏らし、その場に、泣き崩れた。
その時だった。 ガチャリ、と、牢の、入り口の、扉が、開く、音がした。 看守たちが、何か、重い、荷物を、運んできた。 「……おい。これだ。……皇子様の、ご命令だ」 楓と、巴の、目の前に、無造作に、置かれたもの。 それは、埃を、かぶった、一本の、琴(こと)だった。 楓の、愛用していた、あの、琴だった。
「……!」 楓の、目が、見開かれた。 (なぜ……。なぜ、これが、ここに……?) 「……皇子様が、お前の、最後の、音を、お聞きに、なりたいそうだ」 看守が、吐き捨てるように、言った。 「……せいぜい、いい、音を、奏でるんだな。……明日の、命のために」
巴は、その、光景を、愕然と、して、見ていた。 (皇子様……。あなたは、なんと、酷な、ことを……) 彼女は、月白が、楓に、最後の、屈辱を、与えようと、しているのだと、思った。 だが、楓は、違った。 彼女は、ゆっくりと、立ち上がった。 そして、愛おしい、我が子に、触れるかのように、そっと、琴の、弦に、指を、触れた。
(……皇子様) 彼女には、わかった。 月白の、本当の、心が。 (……あなたは、聞いて、くださるのですね) (私が、死を、選んだことも、私が、あなたを、愛したことも、あなたは、知らずに、ただ、私の、音を、待っていて、くださるのですね) 彼女の、目に、涙が、あふれた。 だが、それは、悲しみの、涙では、なかった。 (……ならば、奏でましょう) (あなたに、届ける、私の、最後の、遺言) (私たちが、出会った、あの『真実の音』を)
彼女は、巴から、受け取った、水差しの、水に、そっと、薬を、溶かした。 そして、琴の、前に、正座した。 巴は、もう、声も、出なかった。 ただ、これから、起ころうとする、荘厳な、儀式を、見守るしか、なかった。 楓は、薬を、溶かした、水を、静かに、口に、含んだ。 そして、目を、閉じた。
(……皇子様。……聞こえますか) 彼女の、指が、弦を、捉えた。 ポロ……。 地下牢の、冷たい、闇を、引き裂いて、最初の一音が、響き渡った。 それは、『琴の声(ことのこえ)』だった。
その音は、地下牢の、湿った、石の、壁を、通り抜けた。 それは、重い、御所の、空気を、震わせ、夜の、闇を、切り裂いた。 東宮御所の、荒れ果てた、一室。 月白は、闇の、中で、一人、座していた。 彼の、心臓が、大きく、跳ねた。
(……始まった) 聞こえる。 楓(かえで)の、音だ。 あの、夜、初めて、聞いた、あの、魂の、音だ。 だが、今宵の、音は、あの、日とは、違っていた。
最初は、か細い、水音の、ようだった。 彼女の、悲しみか。 それとも、彼への、別れの、挨拶か。 だが、旋律は、すぐに、力を、増した。 それは、もはや、憎しみや、悲しみの、音では、なかった。 それは、歓喜の、音だった。 すべての、苦しみから、解き放たれ、すべての、運命を、受け入れ、そして、ただ、愛する、人の、ためだけに、奏でられる、純粋な、魂の、輝き。
地下牢。 楓の、指は、血が、滲むほど、激しく、弦を、かき鳴らしていた。 彼女の、体は、もう、自由には、ならなかった。 巴(ともえ)の、薬が、静かに、だが、確実に、彼女の、手足から、感覚を、奪い、始めていた。 (……寒い) だが、指は、動く。 心は、燃えている。
彼女は、思い出していた。 皇子と、過ごした、短い、日々を。 彼が、見せてくれた、書物を。 彼が、語った、遠い、国の、話を。 彼が、くれた、あの、青い、絹布の、色を。 (……皇子様) (……私、今、自由です) (……あなたの、鳥籠で、私は、初めて、空を、飛びました) (……私の、命は、ここで、終わる。……でも、私の、音は、死なない) (……この、音に、私の、すべてを、託します) (……あなたへ)
彼女の、指が、もつれ、始めた。 意識が、遠のいていく。 だが、彼女は、最後の、力を、振り絞り、弦を、かき鳴らした。 それは、彼女の、人生の、すべてを、凝縮したような、激しく、気高い、一音だった。
キィィィン……!
東宮御所。 月白は、その、音を、聞いた。 それは、空気を、切り裂き、彼の、魂を、貫いた。 その、一音が、天に、昇り、消えていく。 そして……。 ……音が、止まった。 完全に。 まるで、張り詰めていた、糸が、ぷつりと、切れたかのように。 絶対的な、静寂が、訪れた。
「……あ……」 月白は、手を、伸ばした。 空気を、掴もうと、するように。 (……楓) 彼は、わかった。 すべてが、終わったのだ。 彼女は、行った。 景厳の、手でも、法の、刃でも、なく。 自ら、選んだ、音と、共に、自由な、場所へ。 涙が、彼の、頬を、伝った。 だが、それは、悲しみの、涙では、なかった。 あまりにも、痛く、あまりにも、気高い、彼女の、魂を、受け取った、証(あかし)だった。 彼は、懐の、簪(かんざし)を、握りしめた。 (……ああ) (……聞こえたぞ) (……お前の、声) 彼は、その場に、崩れ落ちた。 夜の、闇の、中で、ただ、一人、声もなく、泣いた。 それは、皇子、月白が、死んだ、瞬間だった。
次の、朝。 すべては、静かに、執り行われた。 牢で、楓が、死んでいるのが、発見された。 巴が、用意した、毒を、飲んだのだと、すぐに、わかった。 だが、その顔は、苦悶に、満ちては、いなかった。 むしろ、かすかな、笑みを、浮かべているかのように、安らかだった。 まるで、美しい、夢の、中で、眠りに、ついたかのように。 彼女の、横には、一本の、弦が、切れた、琴が、寄り添っていた。
巴は、その、報告を、聞き、自室で、静かに、刃を、胸に、当てた。 彼女の、最後の、贖罪(しょくざい)。
藤原景厳は、報告を、受けた。 「……自害、か」 彼は、つまらなそうに、呟いた。 「……皇子様の、ご婚儀の、前に、面倒が、片付いたわ」 彼にとって、すべては、政治の、駒が、一つ、盤上から、消えた、ただ、それだけの、ことだった。
……そして、月日は、流れた。
月白は、天皇となった。 人々が、かつて、彼を、呼んだ、「月の君」の、面影は、もう、ない。 そこには、ただ、公正、冷徹、だが、決して、笑うことのない、一人の、君主が、いるだけだった。 彼は、景厳の、言う通り、政(まつりごと)を、行った。 彼は、賢帝と、呼ばれた。 だが、その、心は、あの、夜、楓と、共に、死んだままだった。
新しい、天皇の、治世。 御所では、ある、奇妙な、決まりが、できた。 「……琴(こと)を、弾いては、ならない」 特に、夜、琴を、弾くことは、厳しく、禁じられた。 理由は、誰も、知らなかった。
ただ、天皇が、一人、夜の、庭を、散策する時。 彼は、いつも、懐に、手を、入れていたという。 そこには、肌身、離さず、持ち歩く、一本の、古い、木の、簪が、あった。
そして、人々は、ささやき、始めた。 風の、強い、静かな、夜。 すべての、音が、眠りについた、後。 もし、心の、耳を、澄ませば、あの、禁じられた、御所の、奥から、聞こえてくる、と。
弦を、かき鳴らす、気高い、音。 決して、縛られる、ことのない、魂の、叫び。 それは、愛する、人に、向けた、永遠の、約束。
……夜の、琴の声が。
🎨 Prompt Tạo Thumbnail (Gợi ý cho họa sĩ)
Phong cách: Tranh vẽ kỹ thuật số (digital painting) hoặc phong cách anime lịch sử, giàu cảm xúc, tông màu tối và đượm buồn.
Bố cục chính (Tách biệt): Hình ảnh được chia làm hai nửa bởi một đường ranh giới mờ ảo (tượng trưng cho bức tường cung điện hoặc định mệnh).
- Nửa bên trái (Thái tử Tsukishiro):
- Anh mặc triều phục Heian lộng lẫy (biểu tượng của sự trói buộc).
- Anh đứng trong bóng tối của cung điện, khuôn mặt thanh tú nhưng đau khổ, tuyệt vọng.
- Hành động: Anh đưa tay về phía bên phải (về phía Kaede), nhưng tay anh không thể vượt qua ranh giới. Trong lòng bàn tay anh là chiếc trâm cài tóc bằng gỗ (木の簪).
- Nửa bên phải (Kaede/Aya):
- Cô mặc trang phục nữ sư koto giản dị, tóc đen xõa dài.
- Cô ngồi thanh thản bên cây đàn koto của mình, một dây đàn đã bị đứt.
- Hành động: Cô quay lưng lại với Thái tử (tượng trưng cho sự chia ly vĩnh viễn), mắt nhắm nghiền, gương mặt thanh thản nhưng có một giọt nước mắt đang lăn dài.
- Bối cảnh chung: Phía sau cả hai là vầng trăng tròn, sáng nhưng cô độc trên bầu trời đêm. Vài cánh hoa 椿 (Tsubaki – hoa trà) màu đỏ đang rơi lả tả (biểu tượng của gia tộc Miyabi và cái chết).
Ánh sáng & Cảm xúc: Ánh trăng chiếu vào hai nhân vật, tạo ra sự tương phản mạnh mẽ. Bức ảnh phải gợi lên cảm giác về “tình yêu bị chia cắt”, “sự bất lực” và “bi kịch không thể tránh khỏi”.
🇯🇵 Tiêu Đề YouTube (Tiếng Nhật)
Lựa chọn 1 (Tập trung vào bi kịch): 【平安悲恋】「私を愛してはいけません」皇太子と身分を隠した琴の師。二人を引き裂いた残酷な運命と、夜に響く最後の音。
Lựa chọn 2 (Tập trung vào cảm xúc – TTS): 【泣ける話】愛した女は、父の仇の娘だった。皇太子の絶望と、彼女が命を懸けて奏でた『琴の声』。
Lựa chọn 3 (Ngắn gọn, mạnh mẽ): 【時代劇】皇太子と謀反人の娘。許されない恋の結末。
🇯🇵 Mô Tả YouTube (Tiếng Nhật)
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孤独な皇太子・月白(つきしろ)は、新入りの琴の師・アヤと出会う。
彼女が奏でる「真実の音」に、彼は次第に心を奪われていく。
しかし、彼女には隠された秘密があった。
彼女こそ、政変で滅ぼされた「宮家(みやびけ)」の最後の生き残り、楓(かえで)だったのだ。
許されないと知りながらも、強く惹かれ合う二人。
だが、冷酷な大納言・景厳(かげとし)の陰謀と、残酷な「法」が二人を引き裂く。
皇太子が、自らの魂と引き換えに下した、断腸の決断。
そして、彼女が命を懸けて奏でた最後の『琴の声』とは。
これは、平安の都を舞台にした、運命に引き裂かれた二人の、切なくも気高い愛の物語。
最後まで、二人の愛の結末を見届けてください。
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