記憶のパン (Bánh Mì Ký Ức / Pan no Kioku)
第1幕 — 第1部 僕の世界は、いつだって冷たくて、完璧だ。 窓の外には、冬の夜空がどこまでも広がっている。星ひとつ見えない、塗りつぶしたような黒。部屋の中は、温度管理システムによって常に摂氏二十三度に保たれているはずなのに、肌を刺すような寒気が止まらない。 僕は、目の前に置かれた皿を見つめていた。 直径三十センチはある真っ白な磁器の中央に、ほんの少しだけ盛られた肉料理。その横には、銀色に輝くナイフとフォークが、まるで手術道具のように整然と並べられている。 「レン、食べないのか」 テーブルの遥か向こう側から、低い声が響いた。父だ。 工藤重工の会長、工藤源一郎。 この巨大な屋敷の中で、父の声はいつも壁に反響し、実体以上に大きく、重く聞こえる。 僕は黙ってナイフを手に取った。 カチャリ。 銀食器がぶつかる微かな音が、静寂を引き裂く。 最高級の和牛だと、シェフは言っていた。口に入れると、肉は舌の上で簡単にほどけた。とろけるような脂、濃厚なソース。きっと世の中の誰もが羨む味なのだろう。 けれど、僕にとっては、ただの「物質」だった。 味がない。 砂を噛んでいるようだ、と表現した作家がいたけれど、僕の場合はもっと虚無に近い。それは、濡れた紙粘土を喉に押し込んでいるような感覚だった。 飲み込むのが苦しい。 「……いただきます」…